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*陰陽の極意について

*陰陽の極意について


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陰陽の極意について教訓
・「自然界の万物すべて陰陽より成り立っているのであります。宇宙にては陽の電気あれば陰の電気あり、陸あれば海あり山あれば川あり。動植物においても雌あれば雄あり。
万物すべて強弱より成り立つのです。剣の道においても陰陽のその宜しき得れば全うします。つまり、相手が強く出れば弱に応じ、弱に来たならば強にて応ずべし。それを、相手が強に出てくるのに強にて対処する故に相打ちとなり勝敗つかぬものなり。気分はどこまでも先先の先にて、形は弱、即ち相手にまかすべし。これ、相手に従うのを勝ちと言うなり。勝敗わけなく決するものなり。
また、波の教訓というものもあります。打ち寄せる波に大波小波がある如く、剣の技も大技小技と交えて使わなければ意味がない。初心のうちは大技の稽古を積み、ある程度上達すれば追々と小技を交えて使えるようにしなければ駄目なり。どんと打ち寄せた波がさっと引き、次に打ち返す時の呼吸を技に取り入れなければいけぬ。引けども引きっぱなしではなく、気分は打ち出す気分、即ち体は引くが気分は常に前に置くこと。
相手に従う考え方は、幕末に流行した柳剛流(流祖・岡田総右門)の教えにある歌に似る。
「根をしめて 風にまかせる柳見よ なびく枝には雪折れもなし」
・「何事をなすにも剛胆(ごうたん)のみにては失敗を招くものなり。最後の決断を下す前には十二分の周到なる注意が必要である。
ただただ剛胆のみにては猪武者なり。過ち多く縦横四方十二分の注意整わず。細心而剛胆を常に心すべし」
剣道は神の教えの道なればやまと心を磨くこの技 (佐三郎)
「高野範士剣話」(昭和一六年朝日新聞正月紙面に三回連戦された記事より抜粋)
・「剣道修行というのは、単に勝負を目的とするのではなく根本は魂である剣道に魂の籠もっていないのは最も悪い。]
例えば一つ打ち込むにしても魂がそこに籠もっていなければ唯竹刀で打つだけで、それでは役に立たない。気、剣、体といふものがどの技にも伴っていなければ駄目である。打とうという気が起きると同時に手も足も総てがそこに集
中していなければいけぬ。打とうと思ってから打ったのではもう間に会わない。
・剣道で一に眼(目付け・姿勢)、二に足(体裁き)、三に胆(気後れしない胆力)、四に力(技)、 ということがあるが、これは忘れられぬ事柄である。即ち心眼を明らかにして未発の見物を察知してこれに処することが肝心である。
・和歌に「かささぎの渡せる橋におく霜の、白さをみれば夜ぞ更(ふ)けにくる」というのがあるが、これが剣道の極意である。「察知」といふことは東雲の空が白んだのを見て夜明けを知るのではなく、その霜の降りるのを見て夜明けに間近いことを察知しなければならぬ。剣道は形に現われてからでは間に合わない。これは剣道ばかりでなく人間処世の上にも最も大切な教訓となる金言であると思う。
一方、唯勝ちさえすれば良いといふ剣道は役に立たぬ。剣道は気、剣、体が一致してさえいれば、他に何も難しいことを言う必要はない」

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