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*目付について

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※目付について
 目は心の窓というように自分や相手の心の動きにはまず目にあらわれる。
 剣道では目の付け方により相手の心の動き、動作の起こりを察知することが出来る。
 目を自分の打とうとする局部の注意する人が多いけれど、これは大変な間違いです。 
 目は心の動くに従い動くものと言われるが、最もこの点に注意しなければならないのです。たとえば胴を打とうとして胴を注意するときは、心は胴を打つ方に奪われていることを、相手に悟られる恐れがある。このようにもし一局部のみを注意するときは、他の方面は全部留守になります。
 相手に自分の心を悟られないようにするためには、不偏的に心を配って、目は必ず遠山を見る心持ちで、相手の全体を注がなければならない。どこの点にも注意を欠くことがない、またどこの点にも注視することないように目の練習をしなければならないのです。しかし、相手の運動の起こりに、特に注意を払わなければ、その虚を打てるものではない。相手の起こりを知る要点は、すなわち相手の構え中段、あるいは上段ともに手元にある、この手元には特に注意しなければならない。しかし特にこれに目を注げば、相手に悟れる恐れがあるから一局部をのみを注視してはならないのです。なお相手の目に対しては、特に注意を要するものです。
 人の心は目に表れるものです。相手の虚実を知るには最もよくその目に注意することが必要です。いずれにしても一局部に目を付け、あるいは心を配るために、他の方面に油断があると、不覚を取ることがあります。もし不覚を取ったときに、その欠点を知っても、もはや取り返しのつかないものです。充分にこの点に注意しなければなりません。要するに打突の部位に心が捉らわれ、それについて目が絶えず動くことはよくありません。常に無理のない 呼吸の中から相手をうららかに全体の動きが見えるようにすることが大切です。つまり一点を見て全体を自然に見えるという心がけが必要です。
(初心の間は相手の目か顔面を見るようにすることから入るべきです。)

一.目のつけ方
 前に述べた通り、大体相手の顔面に着眼すれども、視線を一定の部位に着眼しないで相手が接近しても遠方を見ると同じ眼で見るようにします。この見方で見るときは、よく相手の全体を一目に見え、眼球を動かさないで相手の両脇までも見えると言われています。

二.二つの目付
 相手を一体に見る中にも、特に重きを置く点が二つあります。
一つは剣先ともう一つは拳(こぶし)です。この二点が動かなければ相手は撃ち出さない。相手が下段になれば動作の起こりがまず剣先に顕(あらわ)れ、上段であれば拳(こぶし)が顕れます。
この二点に注意して、早く相手の動作の起こりを察してこれを押え、または先を打つなど適切な処置に出ると良い。
古来よりこれを二つの目付と言います。
 撃つ、突くという意志はことごとく眼に現れてくるものですが、ことに相手より未熟な時は、たちまち眼によって撃たれるものです。注意しなければなりません。

三.心にて見よ
 相手全体を一目に見るときは、眼目手足の動静がことごとく心にあらわれると言われます。一部分のみに注目するときは、その部分はよく見られるが、全体の拳動を知ることができません。しかし、まったく一部分に注目しなければ、的確に撃つ機会、または、打突の結果を判断する為に一部分を見ることも必要です。
常に全体を見て、必要に応じて一部分を見て、ただちに全体を見る見方に立ち帰ること、すなわち中段の構えが常の構えであれば、相手に隙があればただちに撃ち込み、撃てばたちまち元に中段となることが大切です。
 古来よりこれを相手の太刀を知りて、いささかも相手の太刀を見ずといい、また目には見ずして心にて見よと教えがあります。

※目付・間合
①目付
遠仙の目付・・・相手全体を見る。
紅葉の目付・・・一点に心を奪われると全体が見えなくなる。
観見の目付・・・(五輪の書) 見の眼弱く
↓↓             観の眼強く
心・目
※目で見えた部分から心で見る。
何も見えないで全体を見る。 常に相手を見ながら打つ。
②間合、間
間合 → 空間的間
間  → 時間的間    剣道は両方が必要

※目付けについてその(二)
「相手の目を見よ」と教えられてきているとおもいますが、目は心の窓といわれるように、心の動きが目に現れやすいというのも間違いないでしょう。しかし、目付けとか、見方については、単純に相手の目を見ればよいというわけではありません。目だけにとらわれた見方は正しくありません。外に現れた形だけ見るだけではなく、その奥にある心の動きを観る見方が大切なのだと思います。
 宮本武蔵は「観の見方は強く、見の見方は弱く見よ。」と教えています。このような眼力を養うためには、昔からいろいろの教えがあります。例えば武蔵は、「目付けは大体顔につけ、目は常の目よりも細めよ」といっています。また、他の人の教えにも、これと同じような教えがあります。遠山の目付けとか、半眼に開いた見方とか、これはみな同じことです。半眼の見方というのは、仏像の目です。
ほとんどの仏像は半眼が多いのです。
 仏像の前に立ってみると、正面はもちろん、右に寄って見ても、左に寄っても見ても自分のほうを見ているように思います。さらに、その目はこちらの奥を見ているように感じるのです。この半眼の見方というのは、遠方を見るとか、左右を広く見るとかいう見方です。しかも、その見方で見れば、近くのものも見えるのです。要は、相手の全体を見るように努め、さらに外に現れたものだけを見るのではなく、相手の心の動きを察知することができるような見方を修練しなければならないと思います。

※目の付け所は
「物事の本質を観る事を第一とし、表面的な事を見るのは二の次とせよ」つまり、広い所から物事の本質を深く見極める目「観」と表面的なことを見る「見」の二つの目があり、大切なのは「観」です。
「遠い所を近くに見て、近い所を遠くに見ろ」つまり、身近な問題となる細々とした現象に囚われずにその中から大きなことを学び取ることです。
 目の玉を動かさないままにして、両脇を見る事が大切です(見ずしてみよ)つまり、直面している問題だけに因われることではなく、幅広く周囲を見渡す余裕が大切です。

※目付のこと
目はだいたい相手の顔につけるのである。特別に目を見張る必要もなく、むしろ通常の目より幾分細めに、瞳を動かさず、瞬きをしないで見る。
相手の顔に目をつけるけれども、一部分に視線を固着するのではない。相手との間合いが近くとも遠方の人を見る気持ちで見る。その見方をすると、相手の頭からつま先まで人目に見えるのみならず、眼球を動かさないで、その両脇までもが見えるものである。従って、相手のすることは大小となく目に映じて、これに応ずることができる。
相手を一体と見るうちにも、特に重きを置くべきところが二つある。それは拳と剣先である。技を出すときは、まず拳と剣先にその動きが現れる。これに注意していれば、早く相手の動作の起こりを察し知ることができて、それを押さえまたは先をかけて打つなど、臨機応変の処置がとれるのである。
また、目は心の窓とも言われて、思う所行わんとする所は目にあらわれるものである。相手の心を知ることができると同時に、自分の意志を見破られることにもなるので注意する必要がある。
なお、観見二つの見るということを宮本武蔵は言っている。観の目は強く、見の目は弱くせよというのである。見というのは肉眼で見ることで、部分部分を確かに見るので、観というのは心の目で見ることで、形に現れない一段と深い心の働きまで察知するという意味がある。

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