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*撃剣興行と学校剣道

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※撃剣興行と学校剣道
明治維新によって、日本は大きく変わります。文明開化の波の中で、脱刀令、廃刀令が相次いで公布され、身分制度も廃止されて武士階級は消滅しました。府県によっては剣術の稽古そのものを禁ずるところもあり、一般に剣術は時代遅れと罵られ、顧みられることが少なくなります。その結果、時代に取り残された士族の生活は、困窮の一途をたどることになりました。
こうした状況の中で、直心影(じきしんかげ)流の榊原鍵吉は、明治6年、最初の撃剣興行を行ないました。剣客を相撲のように東西に分け、一組ずつ立ち合わせるものでしたが、この興行がおおいに人気を呼び、東京府内37カ所で行なわれ、東北、九州、四国など地方へも飛び火しました。ところが、次第に見世物に堕したために、またたくまに下火になっていきます。しかしながら、没落士族を救っただけではなく、衰退した剣道の命脈を保ったという意味では、撃剣興行は大きな功績を残したと言えるでしょう。
明治10年になると、西南戦争を鎮圧するにあたって、東京警官隊の中から選抜された抜刀隊の大きな働きがあり、これを契機として、警視庁では剣道が見直され、奨励されるようになったといわれています。おりから、自由民権運動が全国的に盛り上がりを見せており、これに対処するという目的もあったと考えられます。
明治12年には、巡査に剣術を教えることになり、梶川義正、上田馬之允(うまのすけ)、逸見(へんみ)宗助らが招かれ、その後も有名剣士がぞくぞくと迎えられるようになりました。警視庁流撃剣形や階級が制定され、明治20年代にかけて警視庁剣道は黄金期を迎えることになったのです。また、この頃には、他府県の警察でも剣術が採用されるようになっています。さらに同じ頃、無刀流を起こした山岡鉄舟(てっしゅう)は、この時代においては特異な存在といえ、門下から名剣士を輩出し、後世に大きな影響を残しました。明治27年、日清戦争が勃発すると、武道振興の必要性が急激に唱えられるようになります。戦争に勝って尚武の精神の横溢していた翌28年、大日本武徳会が設立されます。
この年から、武徳祭演武大会が毎年開催されるようになり、32年には武徳殿が竣工、大日本武徳会は武道の総本山として、以後長く武道界に君臨することになります。また、精錬証(後の錬士)、教士、範士といった称号の制度も順次整えられました。初~五段の段位制度が確立するのは、大正に入ってからのことです。
剣道の興隆には、学校における剣道の奨励がおおいに影響していますが、その起こりは、やはり西南戦争の頃からであり、慶応義塾、学習院、福山誠之館中学、長崎中学、熊本済々黌などが先駆けとなっています。
中学で剣道を正課とすることは、長く要望されていましたが、明治44年に至って正課としてもよいことが決定し、これによってその指導に当たる教員を早急に要請する必要が生じてきました。
大日本武徳会では、すでに明治38年に武術教員養成所を開設し、またそれとは別に講習科を設けて、持田盛二、斎村五郎、中野宗助、大島治喜太(じきた)など、多くの人材を輩出していましたが、44年にはそれに変わって武徳学校を創立、翌年には武術専門学校(いわゆる武専・後に武道専門学校と改称)となりました。また、東京高等師範学校(筑波大学の前身)においては、大正2年から剣道および柔道の専門教員を養成することになり、翌々年からは体操、柔道、剣道の3コースからなる体育科が新設されました。武専と高師からは、多くの優秀な剣道教員、剣道家が世に送られています。

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