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*形稽古から防具稽古へ

*形稽古から防具稽古へ


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※形稽古から防具稽古へ
江戸時代前半になると、実戦的な殺伐とした剣術が影を潜め、形稽古一色となり、多くの流派が起こりました。それとともに、二天一流の宮本武蔵玄信、心形刀(しんぎょうとう)流の伊庭是水軒秀明(いばぜすいけんひであき)、示現(じげん)流の東郷藤兵衛重位(とうごうとうべしげたか)、タイ捨(しゃ)流の丸目蔵人佐徹斎(まるめくらんどのすけてつさい)などの剣豪も現われました。また、幕府が柳生新陰流と小野派一刀流を御流儀 とし、各藩もそれぞれの流儀を立てて師家をもてなすようになりました。さらに士農工商の身分制度が確立して、剣術は武士のたしなみとなりましたが、世の中が安定し、実戦から遠ざかっている時期が長くなるにつれて、形稽古中心の剣術は理論に走り、精神主義的な傾向が強くなって、迫力のないものになっていきました。こうした傾向が、防具と竹刀の登場によって一変します。
18世紀中頃に直心影流の長沼四郎左衛門国郷により防具が改良されて打ち込み稽古が行なわれるようになり、すこし後に一刀流中西派の中西忠蔵子武によって、それまでの袋しないに代わり現在のものに近い竹刀を使っての防具剣道が始められ、打ち込み稽古が盛んになりました。この頃までには各流派でそれぞれに防具や竹刀が考案されていたようです。
幕末になると、国防意識の高まりとともに、新しく生まれた流派の江戸三大道場[北辰一刀流千葉周作成政の玄武館、神道無念(しんとうむねん)流斎藤弥九郎善道の練兵館、鏡新明智(きょうしんめいち)流桃井春蔵直正(もものいしゅんぞうなおまさ)の士学館]や、幕府の設けた講武所などをはじめとして、剣術界が活況を呈し、他流試合や農民の剣術も盛んになりました。幕末から明治維新にかけての志士たちにも、剣術を学習した者が多かったそうです。剣道という言葉は、江戸時代にも使われることがありましたが、定着したのは明治時代後半以降のことで、それ以前は時代によっていろいろな呼称が用いられています。

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