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*剣道を行う時の心持ち

*剣道を行う時の心持ち


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◎剣道を行う時の心持ち
一、平常心
常に自分が用達する気持ちにて行う。この心は特に大切です。
 例えば、茶瓶の蓋をとるときは、其の摘みの所に指を持っていき、これをつまんで取りますが、剣道において、この摘みの届かないと
ころでつまもうとしたり、又は茶瓶より遥かに行きすぎてつまむようなことをする人がいます。これでは相手が打つべき部位を少しも変えなくてもなかなか当たるものではありません。これは剣道をするとき、今から剣道をするのだという心持ちになって勝気にはやり、虚勢を高め、心にあせりを生ずるなど、平常心を失っている為です。
 大概の人々の剣道を見ると、気合と虚勢とを取り違えまして、無闇ややたらに大声を張り上げ、身体に力みを生じ、手足の動作がごつごつするものが沢山観られます。
 これは犬のケンカを見て悟るのがよいとの教えがあります。
 強い犬は、少しも騒がず、知らぬふりをして横を向いておりますが、弱い犬は、虚勢を張り、大声に吠え、牙を剥き出して如何にも噛みつきそうな気勢を示しています。しかし、強い犬は弱い犬が噛みついて来るときは直ちに尻ではねのけて、知らぬふりをして横を向いています。
 剣道においても、この強い犬のように心持ちで稽古をする必要があります。即ち身体に少しの凝りもなく、すらりと立ち、虚心平気で物事に動せず、心を平静に保ち、焦らず、油断なく、余裕しゃくしゃくたる態度を保ち、少しも平静を失ってはなりません。
 強い者には気が引け、子どもなどは多少侮って、自分の稽古にならないと心得ている者が多いのですが、相手が如何に強くても自分は自己の習得した技を信頼して立ち向かうべきです。ですから、平素信頼している技を会得して、これを充分に使えるという自信をつけておくのが良いと思います。
 技量で格段の相違のある者には、なかなか技がうまく掛からないものです。これはその技を充分使いこなせていない為です。
 技は如何なる名人に対しても利用するものですから、常にこの技を研究しておかなければなりません。
 技の研究もせず、上手な人と稽古を嫌う者がありますが、上手と稽古をして自分の打ちが当たらないとか、また打たれるとか云って嫌っていては上達は出来ません。
 上手が自分の打ちを如何にして防ぎ、如何なる気合にて打ちこみ、如何に間合を合わせ、又は外すかの呼吸を会得する心得で稽古をすれば、いくら打たれても、またこちらの打ちが当たらなくても、少しもいやにはならないのです。
 上手には打たれ、こちら方の打ちは当たらなくても、他の幾分それより以下の者と稽古してみますと、当たらぬと思った打ちも当たり、防禦出来ぬかと思った太刀も楽に始末が出来るものですから、なるべく上手な人と稽古をするのがよいのです。また、下手や子ども達と使うときは自分の技を練習する心構えで、打たれて修行するのです。
 即ち面を打って来るとき、向こうの太刀が何程位まできたときすりあげたら完全にすり上げ得るか、又今のは早すぎたとか、遅すぎたとか、研究してみると、なかなか理想の時機にすり上げることは難しいのです。
 籠手を打って来る場合の、切り落とし等においても同じです。
斬撃、刺突の技もなかなか理想的に使えないものです。ですから、自分よりずっと以下のものを使うとき、攻撃、防禦の技(手筋)を練習するのがよいのです。(刺突は二段以下の者に対してはあまり行わないがよい)要するに、上手と稽古をして気合を悟り、下手と稽古をして自己の技を上達せしめるのです。

二、自分の一番得意または好きな事をなすと同一心持ちにて稽古すべし。この心持ちで剣道をしますと、初心者でも容易に上達することが出来ます。また愉快に楽しく、常に剣道を行えるものです。

三、無地心通
 無他心通とは、相手を打つ一偏の心になれと云うことです。日頃の修行中にも、見物が多いために心が動いたり、或いは余念に心をひかれて自分一偏の働きすら出来ないものです。ですから、心を他に通ぜず、己が修めた技だけを以て相手に当たれと云うことです。これは大事なことでして、無我の境に入ったのと同様に、心配、苦労等を忘れ、健康上多大の効果があるものです。

四、竹刀は太刀なりと常に心得て稽古すべし
 打たれてなくても、刃が触れば切れるものと心得て稽古すべきです。
 然るに往々にして敵の竹刀が自分の身体に触れているにも拘わらず、平気で自分は斬られていないと思い、敵を打って面とか籠手とか掛け声をだす者があります。又胴打ちなどは、手の返りが悪く、刃部でない方(竹刀の柄は丸い為、竹刀が廻り棟打ちとなっているのに気づかず)斬撃することがあります。このようなことがないように充分注意しなければなりません。また竹刀のつぶれを直す必要以外に、竹刀で板間を叩いたり、また軽々しく取り扱う人があります。どうか太刀と同様大切に取り扱われるように心掛けて頂きたいものです。また竹刀を我が身の手足と心得るのがよいと思います。
 竹刀でありますといくら強い太刀を受けても痛くもかゆくもないからこれにて強く受けまたは捻じ合い、こじ合い等するのも宜しくありません。これは竹刀は竹刀、手足は手足と別々の心持ちになるから竹刀が自分の手足の如く働かぬ筈なのです。
 平素、刀もしくは、木刀を以て斬撃の稽古を自習すれば刃筋が正しくなります。

五、剣道は節を付けないように行うこと
節を作ると敵に打たれる機会を与えることになりますから、なるべく動作に節のつかないように注意しないといけません。
 故に、敵の節を見て、逃さず打ち込むよう心掛けてください。

六、其代剣法として行うべし
 これは時をしり、我を知る事です。
 時を知ると云うことは、乱国か又は是非とも必要な時には随分丈夫に手強く教えるのでよいと思いますが、現在では強くすれば怪我をきらい、手足にまめができることをきらいます。そういう修行ならばそれ相応に教えるのがよいと思います。これは時を知ると云うことです。
 我を知ると云うことは、年の若いときは血気筋骨が健やかですから、重い竹刀も自由に使え、飛跳も苦ではありません。然し次第に年寄るに従い、理ばかり向上して少し重い竹刀は振り回しにくく、飛跳も自由でないから、年齢相応の竹刀を用い、その時相応の技を工夫して、一生勝敗の気を不忘稽古することを其代剣法と云うのです。
 十代、二十代、三十代、四、五十代、六十代、七十代、八十代、九十代以上と年齢によって、稽古ぶりを変えて行うものです。
 人により右手の器用なる者、力の多少、背の高低、身体の肥えたる者、身は不器用なるも気の器用なる者、左手の不器用なる者、やせたる者、等個人個人に相違のあるものです。だから先生の極意が直ちに我の極意とはならないのです。だから己に適した技(手筋)を工夫して稽古するのが最も良いのです。

七、 心は常に中央に置くこと
 心は常にへそ下胆田に置きませんと、身体がぐらつき、自然体を失うようになります。また敵が面を打って来ると竹刀を上げて防ぐので
心まで上に上がり、下に隙が出来るから面と見せて胴を打たれる等は心が上に上がるためです。故に、竹刀が右になるときは左に心を置
き、竹刀が下にあるときは上に心を置くようにして丁度よいのです。

八、技(手筋)は本手(囲碁の定石と同様のもの)を習うべし技(手筋)は如何なる名人、上手にたいしても有効に使い得るものです。もし上手に対して有効でないものは、技(手筋)本手でないものですから、本手になるように充分に練習しなければなりません。
 斬撃、刺突の手筋に直接勝(棒勝)は殆どありません。
 将棋なれば飛車取り王手、聨珠なれば三四又は四四であります。しかし両天をかけた場合、だまして為したる如く見えるのは聨珠の三三の如く禁物です。

九、 狐疑心
 自分に疑いのある技ではなかなか当たるものではありません。
 自分に確実に当たる自信をもって技を使い、自信ある技をして始末すべきです。欺くなれば欺くやあらん、欺く等と疑っている内に敵に打たれるものです。故に決して確信のない太刀は使わないように心がけねばなりません。

十、合気の術
 合気にはづれねば善い勝ちではありません。善きに善き、石に石、綿に綿、悪きに悪きの如くでは打合して勝負は見えません。
 故に剣道においては拍子の無拍子を打つのでありまして、敵弱ければ強く、敵早ければ遅くして勝つのであります。
 敵がふわふわであると、自分もふわふわして気合が掛からなくなったり、敵が強く来ると自分もまた強く出ないようにしなけれなりません。もし敵が充分なる気合で掛かって来たなら此方はふわりと気合を抜き、敵が合気となって気の緩むとき、速やかに勝ちを制すると楽に勝ち得るものです。

十一、残心
 残心とは、心を残さずに打てと云うことです。
 当たるまいと思う所などをわざと打つなど皆残心です。
 心残さねばすたる、すたれば元に戻ると云う理です。こう申しますと行き過ぎて越身になるようですが、欺く危ない所につとめねば狐疑心になって自分を惜しみ、隙きの烈しい技の心境に至ることは出来ません。是れを以て勝つ所に負けあり、負ける所に勝ちがあるのです。
 其の危うき負けある所を勤めて自然に勝ちあることを会得すべきです。
 自然の勝ちとは節を打つので、鷹の諸鳥を取るのはみな節にあたるためであります。
 節にあたるならば、百戦疑いありません。
 善きを捨て、また本の初心の一にかえり、怠慢なく勤むべきことです。
 心を残さねば残ると云う理もありますが、これは戻ると云う心であります。たとえば、茶碗の水を汲み、速やかに捨てる故にもどる。このようにおしまず捨てることを要務と致します。これこそ奥儀の円満の端の糸口です。
 終には、磨いた玉(端なき)如き時に至るのでしょう。

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