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*剣道の流れ

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※剣道の流れ
剣道は、日本人が長い年月をかけて育ててきた、すばらしいスポーツです。
 むかしの人たちは、自分の身を守るためと、自分の体をきたえ立派な人間になるために剣道をしました。いまでは、日本に昔から伝えられた武術を武道といっています。もともと武道は人と争うためのものではありません。
 技や体をきたえ、そして物事に動じない強い心をやしなうのが目的なのです。
ですから、むかしのサムライは「刀にかけて、はずかしいことやひきょうなことをしない」ということを、いちばん大切にしていました。
 剣道の防具が考え出されたのは、江戸時代の終わりごろです。それからだんだんに、いまのような剣道に近い技が工夫されてきました。そのころから、スポーツとして考えられるようになりました。
特に明治時代になって、サムライが刀をもつことを禁止されたときは、剣道が忘れられかけていました。そのころ、榊原健吉という先生が、撃剣興業といって、入場料をとって見せもののようなことを始めてから、剣道の根本を見失ったような内容になってきたといわれています。その後日本が、外国文明を取り入れながら発展していくなかで、剣道は、心身にかかせないものと考えられるようになりました。
学校の体育のなかでも取入れられ、専門の先生もおかれるようになったのです。ところが、昭和十六年に起こった太平洋戦争で日本が負けたとき、連合軍司令部によって、剣道が禁止されてしまいました。
 そのときからまた、明治時代の初めごろと同じような、苦しい時代をむかえることになりました。そのころ、心ある先生がたが集まって、日本に剣道を残す方法として、「竹刀競技」を考えだしたのです。このときからふたたび新しく、剣道が始められたと考えてよいでしょう。
 竹刀競技は、フェンシングで使う金あみのついた「面」をつけ、野球のキャッチャーがつけているプロテクターのような「胴」つけて戦われました。竹刀は、先を十六、中部を八、手もとのほうを四つにわって、その上からふくろをかぶせたものが使われていました。
 試合は、決められた時間のなかで、何本とったかで勝負を決める方法です。「有効」も今とは違って、竹刀が手の中でぶるぶる回っていても、決められたところに当たれば、有効という方法がとられていました。
 竹刀競技は、剣道を日本に残すために苦心して考え出されたものでした。ところが、防具のかたちや竹刀の使い方にいろいろな意見があり、あまり発展しなかったのです。
 竹刀競技が発足してしばらくしてから全日本剣道連盟(昭和27年)がつくられ、試合の内容も現在と同じようになりました。いまでは、少年少女やお母さんたちをはじめ、中学校や高等学校などでも多くの人たちが剣道をしています。また、お年寄りの人たちも楽しめるスポーツとして、日本全国で多くの人たちに親しまれています。

※剣道の起源は
 奈良時代に書かれた国最古である「日本書紀」には、武芸に秀でた天皇のことが記されています。このことから、この頃にはすでに刀剣の使い方や扱い方があったものと考えられています。しかし、この時代の刀剣の使い方は、当時作られていた刀剣の形状(直刀)から判断して、斬るというよりも突くことを主体としたものであったといえます。
 平安時代中期から末期になると、刀剣の形状は直刀から彎刀へと変化し、それにともなって刀剣を操作する方法も、突くから斬るへと変わっていきました。

※竹刀剣道の誕生
 竹刀剣道の源流は、直心影流の長沼四郎左衛門や一刀流の中西忠蔵らが面、小手、胴、竹刀などの用具を考案した時点(宝暦年間)にまでさかのぼることができます。
 長沼や中西らが用具を考案するまでの練習方法は、素面、素手で木刀や刀を用いて相手の打突部位直前で木刀や刀を止めるものでした。そのため自由に打ち合うことができず、剣道に対する興味はいま一つ盛り上がりませんでした。しかし、防具の考案によって実際に打突部位を自由に打つことが可能となり、そのために剣道に対する興味が一段と増してきたのです。

※廃刀令
 徳川時代には、武士が刀を腰に差していることは当然のことでした。しかし、徳川時代が終わりを告げ明治新政府となるに及んで、明治新政府は徳川時代のいろいろな制度を廃止しましたが、その政策の一つとして明治九年に廃刀令が発布されたのです。
 廃刀令は腰に刀を差してはいけないというだけでなく、剣道で生計をたてている剣道家に大きな打撃を与えました。

※「剣道」の呼称はどのように変わってきたのか
 剣道という呼称の変遷については歴史家によって違いがみられますが、「日本書紀崇神天皇四十八年の条に「皇子豊城入彦命が夢に八廻撃刀」とあるのが最初である」とする説が最も古いもののようです。その後、奈良時代には「撃剣」「刀撃」などと使われていましたが、平安朝、鎌倉時代、室町中期頃に至っては「大刀打」と呼称されていました。さらに時代が進むにしたがって「兵法」「剣術」「剣撃」と変わっていきました。
 「剣道」という用語が一般的に使用されるに至ったのは、明治四十四年に剣道が中学校の正課として採用されて以来のことです。

※陰流(愛洲陰流)
 史上最も古く流名を残しているのは、「中条流であり、ついで小田流、念流がある。」とされています。この中条流や念流より遅れること約五十年、伊勢の豪族愛洲久忠によって陰流が編み出されました。 久忠は兵法開眼の祈願を込めて、現在の宮崎県鵜戸霊窟に丸二十一日間こもり、ついにその奥技を極めたのですが、その後この陰流はその子、小七郎元香斎や上泉伊勢守秀網に継承されました。さらに、秀網に継承された陰流は、秀網の更なる工夫によりその流名も新陰流と改められ、柳生石舟斎宗厳へと継承されましたが、「陰流は諸流勃興期にさきがけた流儀として重要な位置を占めている」と言われています。

※神道無念流
 神道無念流がとくに有名となったのは、流派の基が新陰流の上泉伊勢守秀綱に発していることに加えて、流祖福井兵右衛門の孫弟子大橋寅吉が天明三年に敵討をしたり、幕末に入ってからもこの流れのながれをくむ人が仇討をしたことによります。さらに幕末に入ってから、この流によって育った剣士に有能な士が多くいたことにもよります。例えば、幕末江戸三大道場の一つに数えられた練兵館主斉藤弥九郎善道や、維新の士桂小五郎、高杉晋作、渡辺昇、谷干城、そして明治の剣豪根岸信五郎、昭和の名人中山博道らがあげられます。
 根岸信五郎は日本剣道制定委員を務めた人であり、中山は昭和の名人達人と言われた人たちですから、神道無念流の影響は現代の剣道界にも深くかかわっている流派といえます。

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