*剣道の歩みを知る
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剣道の歩みを知る
刀剣と剣術の発生
金属製の刀剣は、紀元前の遺跡からも発掘されますが、大陸から伝来した当時の刀剣は、武器としてよりも所持者の権威を象徴するもの、あるいは祭祀的な色彩の強いもので、狩猟や部族間の争いには、弓や投石のほうが主であったと言われています。しかしながら日本書記』中に刀剣をとって戦うことを意味する撃刀(たちかき)という言葉があるように、統一国家に発展するような集団の戦いが繰り返される中で、次第に刀剣が使われるようになったことも事実です。ちなみに、7~8世紀になると、日本国内でも刀が製作されるようになっています。
武士階級が現われた平安時代からは、それまでの直刀に代わって、鎬(しのぎ)造りの弯刀(わんとう)である日本刀の原型ができあがり、『平家物語』には十文字、蜻蛉(とんぼ)返りといった技法名が顔を出しています。また鎌倉時代、室町時代の武家社会になると、剣術、鍛刀技術とも大きく発展し、実際の戦場では定寸の日本刀ではなく、五尺以上もある大刀や槍などが主役になりました。そして戦国時代には、いわゆる三大源流[飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお)の天真正伝神道流など]をはじめとし、塚原卜伝高幹(つかはらぼくでんたかもと)の卜伝流、上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)の新影(しんかげ)流など、流派剣術の起こりを見ることができます。
この頃までの剣法は、実際に戦場で使うことを目的にしていたため、甲冑(かっちゅう)を着用するものでしたが、流派剣術の発生とともに、実戦に備えた稽古の場では、甲冑を着けず、真剣あるいは刃引きで、相手の体に当てぬように一、二寸前で止める形稽古が行なわれるようになりました。
形稽古から防具稽古へ
江戸時代前半になると、実戦的な殺伐とした剣術が影を潜め、形稽古一色となり、多くの流派が起こりました。それとともに、二天一流の宮本武蔵玄信、心形刀(しんぎょうとう)流の伊庭是水軒秀明(いばぜすいけんひであき)、示現(じげん)流の東郷藤兵衛重位(とうごうとうべしげたか)、タイ捨(しゃ)流の丸目蔵人佐徹斎(まるめくらんどのすけてつさい)などの剣豪も現われました。また、幕府が柳生新陰流と小野派一刀流を御流儀 とし、各藩もそれぞれの流儀を立てて師家をもてなすようになりました。さらに士農工商の身分制度が確立して、剣術は武士のたしなみとなりましたが、世の中が安定し、実戦から遠ざかっている時期が長くなるにつれて、形稽古中心の剣術は理論に走り、精神主義的な傾向が強くなって、迫力のないものになっていきました。こうした傾向が、防具と竹刀の登場によって一変します。
18世紀中頃に直心影流の長沼四郎左衛門国郷により防具が改良されて打ち込み稽古が行なわれるようになり、すこし後に一刀流中西派の中西忠蔵子武によって、それまでの袋しないに代わり現在のものに近い竹刀を使っての防具剣道が始められ、打ち込み稽古が盛んになりました。この頃までには各流派でそれぞれに防具や竹刀が考案されていたようです。
幕末になると、国防意識の高まりとともに、新しく生まれた流派の江戸三大道場[北辰一刀流千葉周作成政の玄武館、神道無念(しんとうむねん)流斎藤弥九郎善道の練兵館、鏡新明智(きょうしんめいち)流桃井春蔵直正(もものいしゅんぞうなおまさ)の士学館]や、幕府の設けた講武所などをはじめとして、剣術界が活況を呈し、他流試合や農民の剣術も盛んになりました。幕末から明治維新にかけての志士たちにも、剣術を学習した者が多かったそうです。剣道という言葉は、江戸時代にも使われることがありましたが、定着したのは明治時代後半以降のことで、それ以前は時代によっていろいろな呼称が用いられています
撃剣興行と警視庁剣道
明治維新によって、日本は大きく変わります。文明開化の波の中で、脱刀令、廃刀令が相次いで公布され、身分制度も廃止されて武士階級は消滅しました。府県によっては剣術の稽古そのものを禁ずるところもあり、一般に剣術は時代遅れと罵られ、顧みられることが少なくなります。その結果、時代に取り残された士族の生活は、困窮の一途をたどることになりました。こうした状況の中で、直心影(じきしんかげ)流の榊原鍵吉は、明治6年、最初の撃剣興行を行ないました。剣客を相撲のように東西に分け、一組ずつ立ち合わせるものでしたが、この興行がおおいに人気を呼び、東京府内37カ所で行なわれ、東北、九州、四国など地方へも飛び火しました。ところが、次第に見世物に堕したために、またたくまに下火になっていきます。しかしながら、没落士族を救っただけではなく、衰退した剣道の命脈を保ったという意味では、撃剣興行は大きな功績を残したと言えるでしょう。
明治10年になると、西南戦争を鎮圧するにあたって、東京警官隊の中から選抜された抜刀隊の大きな働きがあり、これを契機として、警視庁では剣道が見直され、奨励されるようになったといわれています。おりから、自由民権運動が全国的に盛り上がりを見せており、これに対処するという目的もあったと考えられます。
明治12年には、巡査に剣術を教えることになり、梶川義正、上田馬之允(うまのすけ)、逸見(へんみ)宗助らが招かれ、その後も有名剣士がぞくぞくと迎えられるようになりました。警視庁流撃剣形や階級が制定され、明治20年代にかけて警視庁剣道は黄金期を迎えることになったのです。また、この頃には、他府県の警察でも剣術が採用されるようになっています。さらに同じ頃、無刀流を起こした山岡鉄舟(てっしゅう)は、この時代においては特異な存在といえ、門下から名剣士を輩出し、後世に大きな影響を残しました。明治27年、日清戦争が勃発すると、武道振興の必要性が急激に唱えられるようになります。戦争に勝って尚武の精神の横溢していた翌28年、大日本武徳会が設立されます。
撃剣興行と学校剣道
明治維新によって、日本は大きく変わります。文明開化の波の中で、脱刀令、廃刀令が相次いで公布され、身分制度も廃止されて武士階級は消滅しました。府県によっては剣術の稽古そのものを禁ずるところもあり、一般に剣術は時代遅れと罵られ、顧みられることが少なくなります。その結果、時代に取り残された士族の生活は、困窮の一途をたどることになりました。
こうした状況の中で、直心影(じきしんかげ)流の榊原鍵吉は、明治6年、最初の撃剣興行を行ないました。剣客を相撲のように東西に分け、一組ずつ立ち合わせるものでしたが、この興行がおおいに人気を呼び、東京府内37カ所で行なわれ、東北、九州、四国など地方へも飛び火しました。ところが、次第に見世物に堕したために、またたくまに下火になっていきます。しかしながら、没落士族を救っただけではなく、衰退した剣道の命脈を保ったという意味では、撃剣興行は大きな功績を残したと言えるでしょう。
明治10年になると、西南戦争を鎮圧するにあたって、東京警官隊の中から選抜された抜刀隊の大きな働きがあり、これを契機として、警視庁では剣道が見直され、奨励されるようになったといわれています。おりから、自由民権運動が全国的に盛り上がりを見せており、これに対処するという目的もあったと考えられます。
明治12年には、巡査に剣術を教えることになり、梶川義正、上田馬之允(うまのすけ)、逸見(へんみ)宗助らが招かれ、その後も有名剣士がぞくぞくと迎えられるようになりました。警視庁流撃剣形や階級が制定され、明治20年代にかけて警視庁剣道は黄金期を迎えることになったのです。また、この頃には、他府県の警察でも剣術が採用されるようになっています。さらに同じ頃、無刀流を起こした山岡鉄舟(てっしゅう)は、この時代においては特異な存在といえ、門下から名剣士を輩出し、後世に大きな影響を残しました。明治27年、日清戦争が勃発すると、武道振興の必要性が急激に唱えられるようになります。戦争に勝って尚武の精神の横溢していた翌28年、大日本武徳会が設立されます。
この年から、武徳祭演武大会が毎年開催されるようになり、32年には武徳殿が竣工、大日本武徳会は武道の総本山として、以後長く武道界に君臨することになります。また、精錬証(後の錬士)、教士、範士といった称号の制度も順次整えられました。初~五段の段位制度が確立するのは、大正に入ってからのことです。
剣道の興隆には、学校における剣道の奨励がおおいに影響していますが、その起こりは、やはり西南戦争の頃からであり、慶応義塾、学習院、福山誠之館中学、長崎中学、熊本済々黌などが先駆けとなっています。
中学で剣道を正課とすることは、長く要望されていましたが、明治44年に至って正課としてもよいことが決定し、これによってその指導に当たる教員を早急に要請する必要が生じてきました。
大日本武徳会では、すでに明治38年に武術教員養成所を開設し、またそれとは別に講習科を設けて、持田盛二、斎村五郎、中野宗助、大島治喜太(じきた)など、多くの人材を輩出していましたが、44年にはそれに変わって武徳学校を創立、翌年には武術専門学校(いわゆる武専・後に武道専門学校と改称)となりました。また、東京高等師範学校(筑波大学の前身)においては、大正2年から剣道および柔道の専門教員を養成することになり、翌々年からは体操、柔道、剣道の3コースからなる体育科が新設されました。武専と高師からは、多くの優秀な剣道教員、剣道家が世に送られています。
大日本帝国剣道形と昭和展覧試合
この頃までの剣道家は、依然としてそれぞれの流派を名乗っていましたが、大日本武徳会は将来の剣道の発展のため、流派を超越した新たな基本となるべき形の選定をする必要を感じ、根岸信五郎、門奈正(もんなただし)、内藤高治、高野佐三郎、辻真平らが主査委員となって各流名派の形を取り入れながら検討し、大正元年、大日本帝国剣道形(現在の日本剣道形)が制定されました。
大正から昭和へと時代が移る中で、各種の大会が盛んに行なわれるようになりましたが、戦前までの剣道界でもっとも大きなイベントが、3回の昭和天覧試合でした。昭和4年の御大礼記念天覧武道大会、昭和9年の皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会、昭和15年の紀元二千六百年奉祝天覧武道大会がそれです。全国の予選を勝ち抜いた府県選士の部と、専門家の中から指名された指定選士の部に分かれて覇を競いました(ほかに特選試合なども行なわれました)。
この3回の大会で日本剣道形を演じた高野佐三郎と中山博道は、この時期剣道界の最高峰として並び称され、それぞれ修道学院、有信館という道場を設けて、多くの人材を育成しました。
剣道の隆盛と戦争への道
大正時代から明治神宮国民体育大会、東京帝大、京都帝大が主催する高専大会などが盛んに行なわれていましたが、昭和3年には全日本学生剣道連盟が結成され、第1回大会の全国大学高等専門学校剣道大会が開催されました。翌々年からは全国中学校剣道大会も始まっています。また、早大のアメリカ遠征、全日本学生選抜軍の満州遠征など、この時期、学生剣道界は、剣道界全体をリードするような活発な動きを示して、めざましい発展を遂げました。
日本が戦争への道をまっしぐらに歩んでいくとともに、剣道も国策と結び付けられるようになり、中学校や国民学校(小学校)での武道教育が義務づけられるようになりました。それとともに、日本が植民地化した満州、朝鮮、樺太などにも多くの剣道家が渡り、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会などにはそういった地域の代表選手が参加しました。
この昭和15年には、紀元二千六百年を祝って、このほかにも各種の記念大会が行なわれています。その中でも、宮崎神宮大会(紀元二千六百年奉祝全国武道大会)は、戦後の東西対抗大会の原形となりますが、2万人もの大観衆を集めたビッグイベントでした。こうして剣道が隆盛を極めるのですが、翌昭和16年に太平洋戦争が勃発します。
しない競技とスポーツ剣道の復活
終戦後、連合軍の占領政策により、剣道は民主的ではないものとされ、学校や警察など公的な機関での活動が禁止されました。個人の自由な意志による稽古までは禁止されませんでしたが、昭和21年には大日本武徳会も解散して、明治維新以来の剣道の空白期が訪れます。
そこで考案されたのが、“しない”競技です。昭和 25年に全日本撓(しない)競技連盟が結成されて全国大会が開かれ、27年にはオープン競技として国体に参加するなど、人気を呼びました。袋竹刀を使用し、シャツ、ズボン姿に簡単な防具を着けてポイントを競い合うものでしたが、スポーツとしての形態はよく整っていました。
この間も単発的に剣道の大会が行なわれていましたが、徐々に剣道復活の気運が高まり、多くの人々の努力が実って、昭和27年、全日本剣道連盟が結成されました。そして、翌年5月に京都大会、11月には全日本剣道選手権大会、29年11月には全日本東西対抗剣道大会が始まりました。さらに28年には、文部省によって高等学校以上での剣道も認められ、学生や高校生の大会も次々に始まって、しない競技はまもなく姿を消すことになります。しかしながら、再出発にあたって、戦前の剣道とは異なりスポーツとして行なうことが基本方針として示されています。
徹底拡大と武道への回帰
昭和30年代に入って段位制度が確立され、各種の大会が増えていくにつれて、剣道は現在に至るまで発展し続けています。
昭和30年代の後半から女性にも一般的なものとなり、海外にも愛好者が増えて昭和45年から3年おきに世界剣道選手権大会が開催されるほどになりました。昭和40年代から50年代にかけては「少年剣道ブーム」と言われ、戦前では考えられないほど広い層へ剣道が普及していきました。こうして底辺が広がる中で、試合が増え、剣道がスポーツ化、ゲーム化しすぎて、スピードや体力の競い合いになってきたことへの危惧から、武道への回帰が求められ、昭和50年代には「剣道の理念」の制定や度重なる規則改正、全日本選手権出場者の資格制限などが行なわれました。しかし平成に元号が変わる前後から少年剣道人口が激減し、町道場も減少して剣道界は沈滞ムードにつつまれます。学校教育でも格技から武道へ名称が変更になりましたが、それまでにとられたさまざまな改革も功を奏さず、平成になってから全日本選手権をオープン化し、試合規則をまたも改正して、戦後最初の出発点に近い形に戻る動きが起こりました。
平成10年頃からは少年剣道人口も横ばいか、ところによってはやや増加に転じ、再開者など中高年の人口が増えるなど、明るい兆が見え始めています。世界選手権参加チーム30を超え、世界的な広がりを持つ武道としてのさらなる発展が期待されています。