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*しない競技とスポーツ剣道の復活

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※しない競技とスポーツ剣道の復活
終戦後、連合軍の占領政策により、剣道は民主的ではないものとされ、学校や警察など公的な機関での活動が禁止されました。個人の自由な意志による稽古までは禁止されませんでしたが、昭和21年には大日本武徳会も解散して、明治維新以来の剣道の空白期が訪れます。
そこで考案されたのが、“しない”競技です。昭和 25年に全日本撓(しない)競技連盟が結成されて全国大会が開かれ、27年にはオープン競技として国体に参加するなど、人気を呼びました。袋竹刀を使用し、シャツ、ズボン姿に簡単な防具を着けてポイントを競い合うものでしたが、スポーツとしての形態はよく整っていました。
この間も単発的に剣道の大会が行なわれていましたが、徐々に剣道復活の気運が高まり、多くの人々の努力が実って、昭和27年、全日本剣道連盟が結成されました。そして、翌年5月に京都大会、11月には全日本剣道選手権大会、29年11月には全日本東西対抗剣道大会が始まりました。さらに28年には、文部省によって高等学校以上での剣道も認められ、学生や高校生の大会も次々に始まって、しない競技はまもなく姿を消すことになります。しかしながら、再出発にあたって、戦前の剣道とは異なりスポーツとして行なうことが基本方針として示されています。
徹底拡大と武道への回帰
昭和30年代に入って段位制度が確立され、各種の大会が増えていくにつれて、剣道は現在に至るまで発展し続けています。
昭和30年代の後半から女性にも一般的なものとなり、海外にも愛好者が増えて昭和45年から3年おきに世界剣道選手権大会が開催されるほどになりました。昭和40年代から50年代にかけては「少年剣道ブーム」と言われ、戦前では考えられないほど広い層へ剣道が普及していきました。こうして底辺が広がる中で、試合が増え、剣道がスポーツ化、ゲーム化しすぎて、スピードや体力の競い合いになってきたことへの危惧から、武道への回帰が求められ、昭和50年代には「剣道の理念」の制定や度重なる規則改正、全日本選手権出場者の資格制限などが行なわれました。しかし平成に元号が変わる前後から少年剣道人口が激減し、町道場も減少して剣道界は沈滞ムードにつつまれます。学校教育でも格技から武道へ名称が変更になりましたが、それまでにとられたさまざまな改革も功を奏さず、平成になってから全日本選手権をオープン化し、試合規則をまたも改正して、戦後最初の出発点に近い形に戻る動きが起こりました。
平成10年頃からは少年剣道人口も横ばいか、ところによってはやや増加に転じ、再開者など中高年の人口が増えるなど、明るい兆が見え始めています。世界選手権参加チーム30を超え、世界的な広がりを持つ武道としてのさらなる発展が期待されています。

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